混迷する時代に革新的な試みを次々と打ち出し、新たな世の幕開けへと挑んだ織田信長。従来の慣習や伝統を否定し、日本に入ってきたばかりの南蛮文化を積極的に採り入れた人物だ。
現在でも非常に高い人気を誇る信長。そんな新奇で物好きな性格を反映してか、彼が愛した花も一風変わっていた。その花とはトウモロコシである。
今回は、そんな型破りな人気武将・織田信長についての雑学をご紹介するぞ!
【歴史雑学】型破りな織田信長が好んだ花は「トウモロコシ」
【雑学解説】織田信長は規格外だがトウモロコシも規格外
トウモロコシの花
南蛮文化を積極的に取り入れたことで知られる織田信長。
好奇心旺盛な性格も手伝ってか、彼は、南蛮から持ち込まれたばかりのトウモロコシの花を愛したという。
トウモロコシは、ポルトガルの宣教師がスイカやカボチャの種と一緒に日本へ持ち込んだとされる。別名・南蛮黍(なんばんきび)とも呼ばれており、古代インカ文明やマヤ文明の遺跡からも発見された、人類が古来より栽培してきた植物だ。
トウモロコシの花と聞いても、ピンとこない方もいるかもしれない。花といっても、我々がイメージするような美しい花ではなく、むしろ花と呼んでいいか戸惑ってしまうようなものだ。
トウモロコシの花が撮影された動画をみてみよう。
トウモロコシの茎の頂上部にできる、穂のようなものが雄花。葉の付け根にできる実の先から、ヒゲのような毛が伸びる集まりが雌花である。愛好するポイントがいまいち分からない地味な花である。
信長が愛したトウモロコシの花。一見、地味なトウモロコシの花を愛したというのも、幼少の頃から風変わりな人物として知られた、彼らしいエピソードではないだろうか。
スポンサーリンク
【追加雑学①】類は友を呼ぶ?織田信長とトウモロコシの浅からぬ関係
人間が先祖から命を繋いできたように、当然ながら植物にも先祖が存在する。だが、トウモロコシの先祖は、いまだ明確には分かっていないという。
トウモロコシの近種と見られているのがテオシントだ。テオシントはイネ科の一年草で、別名ブタモロコシとも呼ばれる、アメリカ大陸に自生する植物である。メキシコではトウモロコシ畑などの雑草として自生している。
ただし、トウモロコシと比べるとその見た目も異なり、さらにテオシント自体にも近種が見つかってないことから、明確には祖先種とは断定できないそうである。
さらに不思議なことがある。トウモロコシは、我々がよく口にする実の一つ一つが外皮につつまれているが、この部分が種にあたる。しかし外皮に包まれた種が、自然にこぼれ落ちることは考えにくい。
というのも、粒のひとつひとつは我々が食べるときのように、熱でも加えないかぎり、そう簡単には落ちてくれないことは皆さんがよくご存じのはずだ。それがどうやって自然界で種を落とし、命を繋いできたのか…不思議に思わないだろうか。
そのことから、トウモロコシは人に食されるために地球上に生まれた植物ではないか、との指摘もされる。いわば常識外れの植物なのだ。トウモロコシの花を型破りな信長が愛したというのも、妙に納得してしまうのは私だけだろうか。
【追加雑学②】織田信長は黒人の武士を家来にした
中央が弥助
信長が、黒人の武士を家来にしていたことをご存知だろうか。名を弥助(やすけ)という。『信長公記』によると、弥助はかつてのポルトガル領のアフリカ・現在のモザンビーク共和国出身で、イエズス会の宣教師・ヴァリニャーノに仕える奴隷の身として日本にやって来たという。
ヴァリニャーノが、キリスト教を庇護した信長を訪れた際、当時の日本では非常に珍しかった黒人の弥助を信長がいたく気に入り、家来にしたというのだ。
弥助の年齢は26歳~27歳。10人並の力もちだったとされており、黒い肌を不思議に思った信長が弥助の肌を洗わせ、その真偽を確かめたとのエピソードも伝えられている。
本能寺の変では、織田家の当主の座に就いていた信長の息子・信忠を守るために明智軍と戦ったとされるが、戦いに敗れた後は何とか生き延びたものの、その後の消息については分かってない。
とにもかくにも弥助は、歴史上に名を残した幻の「黒人武士」だったのである。
雑学まとめ
信長とトウモロコシとの雑学をお伝えしてきた。信長とおなじく、トウモロコシの花にも、奇想天外なエピソードが隠されていたことを分かっていただけだろうか。
信長がなぜトウモロコシの花を愛したのか、筆者も当初は不思議に思った。しかし蓋を開けてみれば、彼が愛したトウモロコシの花は型破りな彼にふさわしく、これ以上ないお似合いの花だったわけだ。類は友を呼ぶとは、よく言ったものである。
おすすめ記事
-
-
広い…!信長は東京ドーム10個ぶんの薬草園を作った【滋賀県・伊吹山】
続きを見る