五輪の歴史

セントルイスオリンピックがいろいろヒドい!アイヌ民族も招待されていたが…

雑学カンパニー編集部

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日本の五輪初参加の前に、2人のアイヌ民族がオリンピックに招待されていたという雑学

セントルイス五輪

日本が初めてオリンピックに参加したのは、1912年のストックホルムオリンピックとされている。

陸上400メートルの選手・三島弥彦(みしまやひこ)と、マラソン選手・金栗四三(かなくりしそう)の2人である。この2人の選手は、日本のみならず、アジアで初めてオリンピックに参加した選手だった。

実はこの大会以前に、日本人がオリンピックに招待されていたことをご存知だろうか。この雑学記事では、日本がオリンピックに初参加する前に招待された、1904年の「セントルイスオリンピック」のエピソードについてご紹介する。

【オリンピック雑学】日本の五輪初参加の前に、2人のアイヌ民族がオリンピックに招待されていた

マッチョ課長
1904年のセントルイス・オリンピックは、国際博覧会の一環として開催されていたんだ。『人類学の日』と称して開かれた『体力測定』などの競技会に、日本から2人のアイヌ民族が参加しているぞ。
新人ちゃん
ん?『人類学の日』?『体力測定』が競技?ちょっと気になるワードが出てきてるんっすけど…。

【雑学解説】1904年に開催されたセントルイス五輪は、とんでもオリンピックだった!

1904年に開催されたセントルイスオリンピックは、とんでもオリンピックだった!というトリビア

セントルイス五輪の「戦争の綱引き」

いまやオリンピックは、多くの国々の選手が参加する世界的な祭典として人々に認知されている。しかし、過去のオリンピックには、国際博覧会の一環として開催された歴史があることをご存知だろうか。そのひとつが、1904年、アメリカで開催された「セントルイス・オリンピック」である。

この大会は、当時のアメリカ大統領、セオドア・ルーズベルトの強い意向で、国際博覧会の付帯事業として開催された大会だった。フランスで開催された「パリオリンピック」につづき2度目のことになる。

マッチョ課長
『万博の付帯イベント』のせいなのか、第2回と第3回のオリンピックはなかなかひどいものだったんだ…。

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大会期間中、オリンピックの公式競技とは別に、競技会も開催されている。それが「人類学の日」と称して開催された、「体力測定」などの競技会である。この競技会には、世界中の少数民族が参加したとされており、日本からは2人のアイヌ人が招待されたという。

参加した選手などの詳しいことは分からないが、日本がオリンピックに参加したのは、公式競技をのぞけば、これが初のことになるのかもしれない。

マッチョ課長
この競技会では、インディアンなどの少数民族の体力測定大会を行っていたらしいぞ…。まるで見世物みたいな扱いだな…。

だが、この競技会は後年、批判にさらされた。民族別の競技会が人種差別を助長するとして、批判の声があがったのだ。国際博覧会の一環として、人権や差別意識の薄かった時代だからこそ、こうした競技会が開催されたのだろう。

【追加雑学①】「セントルイスオリンピック」のマラソン競技で生まれた黒歴史とは?

「セントルイスオリンピック」のマラソン競技で生まれた黒歴史についてのトリビア

フレッド・ローツ

上に紹介したように、「セントルイスオリンピック」は現在では考えられない競技会がおこなわれていた。だが、「セントルイスオリンピック」のとんでも話はこれだけに留まらない。実際の公式競技においても、オリンピック史上に残る不正がおこなわれたのだ。

その不正をはたらいたのが、アメリカのマラソン選手、フレッド・ローツである。レースが開催された当日は、40度を超える炎天下のもとにおこなわれた。あまりの猛暑のために、彼はスタートして20キロを過ぎたあたりで、コース上に倒れてしまったという。もちろん疲労もあっただろう。

そして前代未聞の不正がおこなわれた。コース上に倒れた際、ローツは通りかかった自動車に乗車させてもらい、ゴールの競技場まで連れていってもらおうと依頼したという。なんて、せこい奴だっ!

新人ちゃん
マジっすか?!せっこいなー!

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ところが、車が競技場に着く前に、乗車していた車が故障したために、ローツは途中で車を降り、ふたたび走り出して、ゴールに駆け込むという不正をはたらいたのだ。

当然、バレないばずがない。ゴール直後、彼を乗せていた運転者の証言によって彼の不正が発覚した。こうして彼の優勝記録ははく奪されたのである。

その後、彼はマラソン界からの永久追放を命じられたものの、なぜかローツは復帰が認められ翌1905年のボストンマラソンで優勝を飾ったという。

「なんじゃそりゃ!」とツッコミたくなる甘々な処分である。仮に、酷暑のさなか路上に倒れ、救護のために車に乗車させてもらったとしても、そのままゴールを切ったのは、アスリートにあるまじき行為だろう。彼がどんな思いでゴールしたのか、その心境を聞いてみたかったものである。

マッチョ課長
この事件は、『マラソンキセル事件』と呼ばれている。事件の詳細は以下の記事にあるぞ!

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トーマス・ヒックス

「セントルイスオリンピック」のマラソン競技で、フレッド・ローツが失格になったことは先にご紹介した。失格になった彼にかわって、繰りあげで優勝したのが、同じアメリカのマラソン選手・トーマス・ヒックスである。

彼はローツから1時間遅れの3時間28分53秒でゴールしている。このタイムは、オリンピックのマラソン競技史上もっとも遅い優勝タイムとして記録されている。だが彼もまた、ローツに負けない考えられないエピソードの持ち主だった。

ヒックスは、ストリキニーネと呼ばれる興奮剤とブランデーを飲んで、マラソン競技に参加したといわれる。現行のルールではドーピング違反として失格処分に相当するが、当時はドーピングに対する明確な禁止事項が規定されていなかった。

そのため、ヒックスの優勝タイムは現在も公式に認められているというのだ。マラソン競技そのものを中止にした方がよかったのではないかと思えるレベルだ。

新人ちゃん
もうグダグダのマラソン競技じゃないっすか…。

セントルイス大会のマラソン競技は、オリンピック史上稀にみる黒歴史といってもいい大会だったのだ。

雑学まとめ

日本がオリンピックに初参加する前に、2人のアイヌ民族がオリンピックに招待された雑学と、その大会中のマラソン競技でおこなわれた不名誉なエピソードをご紹介してきた。

セントルイスオリンピックでは、マラソン競技において、現在では考えられないスポーツマンシップに反した行為がおこなわれていた。とりわけ、ゴール近くまで車で移動したローツについては、まるで漫画で目にするようなありえない話である。

オリンピックに参加したからには、選手は正々堂々と勝負してもらいたいものだ。不正や薬物によってオリンピックが汚されないように、選手や関係者には公平公正な大会運営とマナーの順守を願いたい。

新人ちゃん
ここまでグダグダな競技は、さすがにもう起こらないでほしいっすわ。
マッチョ課長
そうだな。まぁ、今の運営はしっかりしていると思うが…。

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