スポーツ競技は選手たちのプライドをかけた真剣勝負の場である。特にサッカーは、ピッチ上で選手同士が熱くなり、危険なプレーや小競り合いで退場者が出るケースも珍しくない。
そんななか、プロサッカー選手として20年以上も活躍しながら、1度も審判から警告(イエローカード)を受けなかった人物がいる。
かつて名古屋グランパスエイトにも所属した、元イングランド代表「ゲーリー・リネカー」だ。
この記事ではプロ生活において、退場(レッドカード)はおろか、警告(イエローカード)を1度も受けたことがないゲーリー・リネカーの雑学を紹介しよう。
【スポーツ雑学】サッカー選手「ゲーリー・リネカー」の偉大な記録とは?
【雑学解説】フェアプレー精神を貫いた「ゲーリー・リネカー」
国の威信をかけたサッカーの試合は、選手のみならず観る者も熱くさせる。国際サッカー連盟によると、ロシアワールドカップをテレビ観戦した視聴者は、世界総人口の半数以上にあたる推定35億7200万人にのぼったという。
国や選手のプライドがぶつかりあうサッカーの試合では、ときに選手同士が熱くなって、ラフプレーが飛び出したり、退場者が出てしまったりすることもある。
ところが、約20年も国を代表するサッカー選手として活躍しながら、退場はおろか、1度も警告を受けなかったのが、ゲーリー・リネカーなのだ。
ゲーリー・リネカーの経歴がスゴすぎる【動画】
イングランド・レスターに生まれたリネカーは、地元のグラブチーム「レスターシティー」でプロ生活を始めた。
24歳のころにはイングランド代表に選ばれ、1984年5月に行われたスコットランド戦で代表デビュー。この時期のリネカーのプレーで特に強烈なのは、1986年のワールドカップ・メキシコ大会だろう。
この大会でリネカーは手首にケガを負いながら、なんとギプス姿で試合に出場した。しかし1次リーグ第3戦の対ポーランドで、見事ハットトリックを達成。大会通算6得点の大会得点王に輝いたのである。
リネカーにかかれば、「ケガをしているから」は言い訳にならないということか!
さらに1980年代半ばからは、イングランド内の3つのチームでプレーし、3度得点王になる。1990年のイタリアワールドカップでも、4得点を挙げるなど華々しい活躍をした。
これら現役時代の記録をトータルすると、以下のように異例の数字が並ぶぞ!
- イングランド代表において通算80試合に出場し、48得点
- ワールドカップ通算12試合に出場し、10得点
- プロ通算333得点
このような記録を引っ提げ、2003年のこと、リネカーは晴れてイングランドサッカーの殿堂入りを果たすのだ。まさに80~90年代を代表する、イングランドサッカーの名ストライカーだったのである!
ここでリネカーが1986年から3年間にわたって所属した、ヨーロッパのビッククラブ・「バルセロナ」でのゴール集をご覧いただこう。
さて、本題はここからだ。彼はその得点率にしても大きな記録を残しているが、驚くべきことに、プロ通算600試合以上に出場しながらも、1度も警告を受けたことがない。
その功績が称えられ、1991年には国際サッカー連盟から「フェアプレー賞」が贈られた。リネカーは史上稀に見る、フェアプレー精神の塊のような選手だったのだ。
名古屋グランパスエイトに来てからはあまり成績も振るわなかったので、全盛期を知らない人からすれば少し意外な経歴かもしれない。しかし紛れもなく、サッカー界のレジェンドに数えられる一人なのだ!
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【追加雑学①】ゲーリー・リネカーの記録はどのくらいスゴい?
ここまで読んだ人のなかには「イエローカードを一度ももらわないことが、どれほどの快挙かイマイチピンと来ない」…という人も、正直いるのではないか。
そもそもイエローカードはどういうときにもらうかというと、以下のような「非紳士的行為を行った場合」だ。
- プレーを遅らせる
- 言葉または行動により異議をしめす
- 審判の許可なくフィールドから出たり入ったりする
- 繰り返し競技規則に違反する
- 遅延行為
- 反スポーツ的行為を犯す
なるほど…たしかにカッとなれば違反してしまうこともあるだろうが、冷静にプレーできる人なら、もらわないことはそんなに難しくないのでは? とも思える….
いやいや、それがまた、とんでもなく難しいことなのだ。
J1のイエローカードランキング
以下は2019年11月時点のJ1イエローカード枚数ランキングの上位者だ。誰しも名前を知っているようなスター選手が並んでいることがわかる。
- 1位「大久保 嘉人」ジュビロ磐田…103枚
- 2位「角田 誠」V・ファーレン長崎…86枚
- 3位「遠藤 保仁」ガンバ大阪…75枚
- 4位「阿部 勇樹」浦和レッズ…68枚
- 5位 「田中 マルクス闘莉王」京都サンガF.C.…66枚
トッププレーヤー同士の争いとなると、それこそ熾烈を極め、勝利を導くためにギリギリのプレーが要求されるシーンは少なくない。
フェアプレー精神に定評のある日本の選手でも、これだけの反則を取られているのがいい証拠だ。
以下はリネカーの現役時代のゴール集だが、イエローカードをもらったことがない彼にしても、接触プレーを頻繁に行っていることがわかる。
ちなみに2018年ワールドカップ決勝トーナメントの日本対ベルギー戦において、リネカーは両者のフェアプレー精神を「フットボールはこうあるべきだ」と称賛しているぞ!
試合にこそ負けてしまったものの、フェアプレーのレジェンドが認めるサッカー日本代表の未来は明るい。
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【追加雑学②】ゲーリー・リネカーのグランパスエイトでの苦悩
2019年2月15日のこと、イギリスのスポーツ番組『BT Sports』にリネカーが出演し、日本での思い出を語るシーンが登場し、話題を呼んだ。
リネカーが日本でのプレーについて語ったのは、同番組の人気企画『what I wore(私は何を着ていたか)』において、1993~1994年にかけて在籍していた「名古屋グランパスエイト」のユニフォームを手渡されたからである。
リネカーがグランパスエイトでプレーした2年というのは、彼の選手人生のなかでもっとも苦しかった時代といっていい。
何を隠そう、ワールドカップではケガすらものともしなかったリネカーが、まったく良い成績を残せなかったのだ。
リネカーは移籍に際して約2億6500万もの年俸が掲げられ、チームから大いに活躍を期待されていた。しかし…
- 1993年…全7試合に出場・シーズン通算1得点
- 1994年…全11試合に出場・シーズン通算3得点
というように、リネカーの武器である得点力がまったく発揮されなかったのだ。
この2年を経てリネカーは約20年の現役生活を終えることとなり、積み上げてきた功績の割に後味の悪い引退を飾ることになってしまったのである。
25年の時を経てグランパスエイトのユニフォームを受け取った彼は「ワオ! グランパスエイト! 忘れもしないよ」と笑いながら語った。プレーが振るわず非難された日々も、今の彼には人生の糧となっているのだろう。
ゲーリー・リネカーがグランパスで活躍できなかった理由とは?
リネカーが日本で活躍できなかったのは、一説にチームとの相性が悪かったからだといわれている。リネカーはその得点力が物語っているように、ゴール前のチャンスで一番持ち味を出せるプレイヤーである。
つまり彼が活躍できるかどうかは、ペナルティエリアでどれだけボールが回ってくるかにかかっている。
この辺りで、イギリスと日本の選手のプレイスタイルに違いがあり、リネカーは真価を発揮できずに2年間を終えてしまったのではないかといわれているのだ。
いずれにしても過去を振り返って、貢献できなかった事実を認め、「Jリーグは素晴らしかった」と語ることができるリネカーはやっぱりカッコイイ。
以下が『BT Sports』にてリネカーが現役時代の思い出を、ユニフォーム片手に語った一幕だ。全編英語なので、興味のある人はYouTubeの字幕機能を使って観るのもいい。
終始にこやかに話すリネカーはいかにも紳士的だ。
現在はイギリスでサッカー番組の司会を務める他、新聞などのコメンテーターとして活躍中で、同国民に絶大な人気を誇っているぞ!
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【追加雑学③】ゲーリー・リネカーよりスゴい記録の持ち主とは?
実はプロ生活で一度も警告を受けなかった選手はリネカーだけではない。上には上がいた。
その人物とは、リネカーと同じくイングランド代表として活躍し、「ドリブルの魔術師」と異名をとった「スタンリー・マシューズ」である。彼の記録はリネカーをはるかに超えている。
マシューズはなんと33年間もの間、退場(レッドカード)・警告(イエローカード)を1度も受けたことがない選手なのだ。
スタンリー・マシューズの経歴【動画】
スタンリー・マシューズは、17歳で「ストーク・シティ」とプロ契約を結び、1934年9月29日に行われたウェールズ戦で代表デビューを飾った。
彼は代名詞であるドリブルでそのキャリアを切り拓き、イングランドサッカーの創世記を支えた選手だ。代々受け継がれたそのテクニックは、現在のサッカーシーンでも「マシューズフェイント」と名高い。なにそれカッコイイ…。
1956年には創設されたばかりの「欧州年間最優秀選手」にも選ばれ、1965年には、イギリス王室から勲章を授与。サッカー選手初の「ナイト」の称号を得た。スポーツの成績で実生活の階級まで変わってしまうなんて、ただ事ではないぞ!
実際にマシューズがプレイしている映像をご覧いただこう。注目のマシューズフェイントも1分45秒あたりで見られる。
マシューズの華々しい記録を支えたのは、そのプロ意識の高さだ。彼はなんと50歳まで現役生活を続け、イングランド1部リーグとイングランド代表選手の最年長出場記録の保持者にもなっている。
これらはひとえにタバコ・お酒などの嗜好品を一切口にせず、野菜中心の食生活を送るなどの、徹底した体調管理からなるものだ。
33年間一度も警告を受けたことがないのも、自制心がひときわ高いマシューズだからこそ成し得た偉業ではないか。
こう見てみるとリネカーは第二のマシューズ。その自制心を引き継いだ後継者といっていいかもしれない。
【追加雑学④】審判が選手に出す「カードの色」の由来とは?
今ではイエローカード・レッドカードという言葉も当たり前になっているが、反則行為などで審判がこれらのカードを掲示するようになったのは、1970年のメキシコワールドカップからの話。
当初はカードは使われず、審判員は選手に対し、すべて口頭で警告や退場を伝えていた。ワールドカップは1930年から行われているのに、カードの導入は意外と最近の話なんだな…。
…そして途中から導入されたにしては、このイエローカード・レッドカードの色に「あ、なんかやらかしたな」と一発でわかるイメージがあるのも不思議だ。
それもそのはず、このイエローカード・レッドカードの色は誰しもなじみ深い、信号機の色を参考に考案されたものだからである。要はカードが採用されたときからすでに「黄色=ヤバイ」「赤=アウト」という認識は世界標準だったのだ。
カードの掲示を提案したのはイギリス人審判の「ケネス・アストン」。彼は口頭で審判の意図を伝える手段が不十分だと考え、この手法を考え出した。国際試合では言葉の問題から、審判と選手の意志疎通が難しい場面がたびたびあったのだ。
信号機でみんな「ヤバイ色だ」とわかっている黄色と赤なら、たとえ言葉が通じなくても、反則行為があったのは一目瞭然である。そして観客としてもわかりやすい。アストンさんナイスアイデア!
1966年のイングランドワールドカップで審判委員長を務めた彼は、帰宅途中に信号機の色を見て、このアイデアを思いついたという。そして次の1970年大会で導入されて以来、その歴史は現在まで続いているのだ!
ゲーリー・リネカーの雑学まとめ
今回はサッカー界のフェアプレー精神の化身ゲーリー・リネカーの雑学をお届けした!
リネカーもすごいが、まさかその上をいく選手がいるとは…スタンリー・マシューズ恐るべし。どちらにしても両者のイエローカード0枚記録に適う選手というのは、今のところ出てきていない。
ふたりの功績をお手本に、これから新記録を生み出していってほしいものだ!
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