人はみんな、いずれは死んでしまう。どうせなら死ぬそのときまで笑って過ごしたいなと、私は日頃から思っている。
…最期まで笑って過ごしたかどうかはさておき、歴史上の人物には、不謹慎ながら思わず笑ってしまうような死因をもつ人がちらほらいる。今回はそんなちょっとおかしな死に方をした人物のなかから、とっておきのエピソードを紹介しよう。
人はいつ、どんなことで死んでもおかしくないんだな…と再確認させられる雑学である。
【歴史雑学】自分で置いた石を踏んで死んだ天皇がいる
【雑学解説】2歳で天皇になり、12歳で亡くなった四条天皇
今回の主役・四条天皇(しじょうてんのう)は、1232年12月5日、第87代の天皇に即位した。
四条天皇は、先代の後堀河天皇(ごほりかわてんのう)の長男で、1231年に誕生すると同年、秀仁(みつひと)親王となり、皇太子に。翌年、わずか2歳で天皇の座に就いた。
幼齢のため実際の政務は父親の後堀河上皇が行っていたが、上皇は1234年、23歳のときに病気で崩御(ほうぎょ:天皇が亡くなること)。以降は母方の祖父である九条道家と、曾祖父にあたる西園寺公経が後を引き継いだという。
要するに幼いながら、いろいろな事情でやむを得ず天皇になった人物だったのだ。
しかし在位期間は10年と短く、1242年1月9日、12歳の若さで崩御している。まあ、この時代は幼くして亡くなる人もそんなに珍しくないよね。
と、通常ならそんなに取り沙汰されることでもなく感じるのだが、この四条天皇、死因がちょっと残念すぎて、800年近く経った現代でもしばしばネタにされてしまう人なのだ。若くして亡くなったのは病弱とかそんな感じではなく、不慮の事故なのだが…。
四条天皇はイタズラに失敗して亡くなった
四条天皇はイタズラ好きのやんちゃ坊主で、このときは御所の廊下に滑り石を巻き、自身のお世話をしてくれている側近や女房たちを転ばせて楽しもうと考えていた。
しかしなんと、罠がちゃんと機能するかをチェックしようとして、自分で転んで頭を打ち、そのまま亡くなってしまったのだ…。一説には脳挫傷を起こしたといわれている。
「アイツら、これ踏んだらさぞ盛大にすっ転ぶぞ! どれ、どんな具合か試してみよ…うっ!!」
…みたいな。
個人的に、こういうやんちゃな人って大物になる印象があるから、生きていれば違う意味で歴史に残る天皇になっていたかもしれない。
四条天皇の御陵(ごりょう:天皇の墓)は、父の御堀河天皇とともに京都市東山区の泉涌寺(せんゆうじ)に設けられている。
以下がその紹介動画だ。亡くなり方は残念でも、立派なお寺に祀ってもらえて、少しは報われたことだろう。
ちょっと不謹慎だけど、友だちと京都観光の際に今回の雑学を披露すると盛り上がるかもしれない。
【追加雑学①】四条天皇の死が巻き起こした波乱
四条天皇の崩御は、子どもがイタズラに失敗して亡くなってしまったというだけの話ではなく、実は当時の朝廷に大きな波乱を呼ぶことになった。
というのも、彼の父親である後堀河上皇にはほかに子がおらず、上皇自身もすでに亡くなっている状態。ということで、次の天皇はほかの系統に頼らざるを得なくなるのだが、この点で朝廷と幕府がひと悶着起こし、天皇の座は11日間、空位となることに。
これは称徳天皇から光仁天皇に皇位が移った770年以来、472年ぶりの事態だった。
どうして朝廷と幕府がそこまで揉めたかというと、後堀河天皇や四条天皇を含む守貞親王の系統には、1221年の承久の乱(しょうきゅうのらん)にて、幕府に破れた後鳥羽上皇の系統から皇位が移った経緯があったからだ。
この際、幕府は後鳥羽上皇の系統は漏れなく京から追放していたのだが、守貞親王の系統が途絶えてしまった以上、再び皇位は継げるのは後鳥羽上皇の系統だけである。
これを受けて候補に挙がったのが、後鳥羽上皇の孫にあたる忠成王(ただなりおう)と、邦仁王(くにひとおう)だった。
このうち朝廷で権力を握っていた九条道家らが推したのが忠成王だった。しかし彼は承久の乱で幕府に対し好戦的な態度を見せていたため、幕府としては「いやいや、忠成王が天皇になって、また騒ぎ起こされたらたまらんで…」という感じだ。
そこで幕府は、朝廷の内大臣で幕府に血縁者が多かった土御門定通(つちみかどさだより)を通じて邦仁王を推し、結果彼が第88代・後嵯峨天皇となることとなったのである。
後嵯峨天皇は後鳥羽上皇の孫でありながら、承久の乱には関与しておらず温厚だと捉えられていたため、幕府としてはこっちのほうが都合がよかったのだ。
ともあれ、四条天皇の崩御によって、承久の乱で排除された後鳥羽上皇の系統に皇位が戻ったわけだ。後鳥羽上皇は島流し先の隠岐にて、1239年に亡くなっているため、四条天皇の死は、彼の怨念ではないかと騒がれたという。
なんでもこのころ、幕府の有力者にも亡くなる人が相次いでいたとかなんとか…。たしかに、後鳥羽上皇から皇位を剥奪されたと思ったら、後継の後堀河上皇や四条天皇がすぐに亡くなってしまったというのは、ちょっと話がうまくいきすぎているような気も…。
幕府が推した後嵯峨天皇も波乱を呼ぶことに…
このようにして、1242年、幕府が"温厚そうだ"といって推した後嵯峨天皇が即位するわけだが、実は彼もけっこうなトラブルメーカーである。
後嵯峨天皇は皇位の継承に関して、子息たちが揉める原因を作り、以降200年に渡って皇室が真っ二つに分断され対立する、両統迭立(りょうとうてつりつ)の状態を招いたのだ。
彼には後深草天皇と亀山天皇というふたりの息子がおり、通常なら後継に当たるのは長男の後深草天皇だった。当初はその通りに皇位継承が行われ、後深草天皇は1246年に天皇となっている。
しかし1258年、後深草天皇が16歳のころに、弟の亀山天皇が誕生。この翌年、なんと後嵯峨上皇が後深草天皇に皇位を譲らせ、亀山天皇を即位させてしまうのだ。
その後も後嵯峨上皇は後深草天皇の系統に皇位を戻すつもりはなく、次の皇太子も亀山天皇の長男・世仁親王に決め、そのまま亡くなってしまう。
こんなことをされてしまえば、後深草天皇が「え…俺、長男なんすけど?」となってしまうのは当然のこと。
ここから後深草・亀山系統で対立が起こり、以降200年、両系統から交互に天皇が即位するという、両統迭立の状況を招くことになってしまったのである。
直接関係があるわけではないが、四条天皇の崩御から派生して、またとんでもない大事になってしまったものだ…。
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【追加雑学②】お尻にできたデキモノを掻き過ぎて死んだ将軍がいる
ネタみたいな原因で亡くなった歴史上の人物というのは、探すとけっこう出てくるものだ。室町幕府の第4代将軍・足利義持(あしかがよしもち)もそのひとりである。
義持は、金閣寺を建立した第3代室町将軍・義満(よしみつ)のあとに、9歳で将軍の座に就いた人物で、在職期間は歴代の将軍で最も長い28年を誇った。
43歳で亡くなった義持の直接的な死因については敗血病だといわれる。敗血症とは、体内に入り込んだ細菌などが原因で、内臓が機能不全を起こしてしまう恐ろしい病気である。
ただ…義持の場合はこの病気に至った経緯に耳を疑わされる。
…なんか、お尻のデキモノがかゆくて、かきすぎたのが原因らしいよ。その傷口から菌が入った的な。それこそ死の直前には、彼のお尻の肉は壊死(えし)していたといわれるほどだった。
…みんなもデキモノのかきすぎには注意である。大人しく虫刺されの薬でも塗っておこう!
なお義持は、あえて後継者を指名しなかったことから、側近たちが次の将軍をくじ引きで決めたことでも有名だ。
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【追加雑学③】イチゴの食べ過ぎが原因で死んだ大名がいる
今度は食べものが原因で亡くなった人物の話だ。江戸時代初期の尾張藩主・徳川綱誠(とくがわつなのぶ・つななり)はイチゴの食べ過ぎで亡くなったという。これまた珍しい死に方である…。
綱誠は、先代藩主・徳川光義の次男として生まれ、1693年に家督を継いで藩主になった。幼少より将来が期待され、学問や教育に力を注いだ人物だったのだとか。
しかし家督を相続してから、なんと6年で急死してしまう。死因はイチゴの食べ過ぎによる食あたりである。あれ? 聡明な感じなのに…死に様はなんか、なんかである。…ていうか、イチゴってあたるんだ。
なんでも綱誠は大食いで名の通った人物でもあったという。フードファイト的なことしてたのかな…?
雑学まとめ
今回は、歴史上の人物たちのちょっとおかしな死因の雑学を紹介した。
特に自分のイタズラが原因で亡くなってしまった四条天皇は、もはや残念としか言いようがない…。いや、笑っちゃダメなんだろうけど、やっぱりちょっと笑ってしまう。
亡くなり方は残念だったけど、四条天皇は、天皇という存在に親近感を持たせてくれる。そういった意味で重要な役目を果たしたと言えなくもない…?
ともあれ、人というのはいつ何が原因で死んでしまうかわからない。死を意識することは難しいけど、後悔しないよう、今を楽しまなくちゃね!
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