オシャレな髭(ヒゲ)を生やした男性はダンディな魅力がある。体の一部でありながら、そうして外見の魅力を高めることにも一役かっているおヒゲだが、かの戦国武将・豊臣秀吉は自前のヒゲではなく、なんと付けヒゲを使っていたという説があったのだ。
ここではなぜ秀吉がこんなアイテムを使っていたか、理由となった戦国の事情や、のちの時代のヒゲに対するイメージまで詳しく解説していくぞ!
現代の日本ではあまりいないかもしれないが、ヒゲに悩みを抱えている男性諸君は、秀吉に共感してしまう雑学かもしれない…。
【歴史雑学】豊臣秀吉のヒゲは付け髭
【雑学解説】ヒゲが薄かったから付けた
頭髪やヒゲが薄いという悩みを抱えている人は今でも多くいるだろう。こればかりは体質・いろいろなストレス・男性ホルモンの関係もあるだろうから、仕方がない話だとは思うのだが、かの天下人・豊臣秀吉もこの悩みとは無縁ではなかったらしい。
過去に織田信長が、秀吉の頭髪が薄いことを書状でネタにしていたそうだ。ひどい…そんな扱いを受ける秀吉、きっと見た目がコンプレックスであったにちがいないと思う。
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そして、髪どころかヒゲも薄かったとのこと。当時は、立派なヒゲは権力を示すという意味合いが強く、ヒゲ薄の秀吉が付けヒゲを付けて威厳を保とうとした、という話もかなり信じられる。
ちなみに、宣教師ルイス・フロイスが、「秀吉のヒゲは薄かった」ということなどを書物に記している。
そして秀吉自身も「たしかにワシの見た目は貧相だが、その自分が天下を収めていることを忘れるな」的なことを言っていたそうな。
こんなことを言うところが、自身の容姿が悪いという自覚があったことを裏付けている。もちろんこれは、付けヒゲを使用するにいたった本人のヒゲの薄さも含めてのことだと推察する。
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【追加雑学①】のちにヒゲが禁止された!?
少なくとも、秀吉の時代にはヒゲをたくわえることが慣例化されていた。逆にないことの方がバカにされていたような時代だったのだ。
しかし、時代が進むと事情もガラッと変わるようで、江戸時代には四代目将軍・徳川家綱が「大髭禁止令」というものを出した。
現代でも勤め先によって、ヒゲをたくわえるのがダメなところも多いだろう(たとえオシャレであろうと)。
おいおい今度は生やすなってか…。そもそもなぜ、この大髭禁止令が出されたのだろうか?
大髭禁止令へのいきさつ
秀吉が没し、戦国最後の合戦・大阪の陣も終え、天下泰平の江戸時代が始まった。
さて、こうして平和になった時代では、かつてバリバリと戦働きをしていた武士たちはどうなるのか? 戦以外の才能を買われ、上手く仕官(就職)できた者は良いのだが、それ以外の「武一本」で生きてきた武士は職をなくしてしまった。
ただ職を失っただけならともかく、時代の変化にやさぐれてしまった元武士たちは浪人になったり、無頼漢(ぶらいかんと読む、ようするに暴れ者)になったり、果てには辻斬りになった者もいたそうだ。
そして元武士たちの無法ぶりがヒゲと結びつき、ヒゲを生やした人間はかつての乱世を思い起こさせる存在となった。
戦国でないにもかかわらずヒゲを生やすのは、幕府への反逆の意志ありと思われるのを恐れた大名たちも、こぞってヒゲを剃ったのだという。
一応、江戸当初からも上記武士の素行や身だしなみを取り締まってはいたが、こと「ヒゲ」の部分に対してはそこまで厳しくしていたわけではなかった。
しかし、職を失った武士たちの蛮行はヒートアップするばかりなので、ヒゲのイメージはますます悪くなり、かつての戦国時代の荒々しさを思い起こさせる負の象徴としての見方が、ますます強まっていく。
やがて禁止令へと…
そして1670年、いよいよ幕府は四代目将軍・家綱の名のもとに大髭禁止令を出した。ヒゲ=悪になってしまった末の出来事といえる。
ちなみにこの禁止令では、頬やあごの上下に長く大髭を生やすことを禁じた(無精ひげまではセーフかどうかは定かではない)。
例外として医者・山伏・神官・還暦すぎの老人などが生やす分には「まあオッケー?」くらいで大目に見てくれたそうだ。
こうして一部の人間を除いて、かつて武将の身だしなみとしての側面があった「ヒゲを生やす」という行為が大々的に禁止されたのだ。
しかしこの発令も、最初はそれほど効果がなかったため、ここまでいってもダメならばと、後々罰金を取るようにまでした。民衆も武士もさすがにお金までは払いたくないらしく、ヒゲをたくわえる行為はしばらく収束したそうだ。
禁止令のその後は…
この後も大髭禁止令は、江戸幕府が終わりを迎えるまでその効力が続いたという。時代を生きた武家も大名も、この禁止令にしたがいヒゲを生やさないことを厳格に守ったそうだ。
しかし、幕末から明治以降の日本では一気に西洋化が加速した。その影響か、武士がチョンマゲを落とし、ザンギリ頭にする流れとともに、ふたたびヒゲを生やすことが流行したのだ。
たとえば、かの大久保利通がヒゲを大いに伸ばしているのは、歴史教科書の写真などを見てもわかるだろう。
こうして大髭禁止令は、日本の近代化にともない消滅したのである。
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【追加雑学②】ヒゲを生やした人物の肖像画?
ここでふたたび、禁止令がまだ有効であった幕末まで話がさかのぼるのだが、大髭禁止令以降の大名の肖像画で、15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)の父である徳川斉昭(なりあき)の肖像画だけがヒゲをたくわえたものとなっている。
というのも、なぜ斉昭の肖像画だけがヒゲを生やしたものになっているか、いまだ詳しいことが解っていないのだ。
しかしこの斉昭という人物、仕事がめちゃくちゃ出来る行動派であるいっぽう、荒々しい性格をしており、さらに女遊びが大変お好きな御仁だったらしい。
そうした情報から考えて、ここからは筆者の推測になるのだが、せめて肖像画だけでもヒゲをたくわえたものにして、自分をカッコよく見せようとしたのではないかと思った。上記のとおり、遊び好きで破天荒っぽい性格ならば充分にあり得る話ではないかと考える。
もしくは、すでに幕府がその権威を失いつつあった時代でもあったことから「もうヒゲ生やしたっていいんじゃね?」くらいの感覚で、肖像画と同じく本人もヒゲを生やしていたかも知れない(しかも幕府の超お偉いさんだから、それを罰する人間も限られると思われる)。
ちなみにこの斉昭、大河ドラマ「西郷どん」で俳優・伊武雅刀さんが演じた役でもあるのだ。ちょっとしたトリビアとして覚えていて損はないだろう。
雑学まとめ
昔のヒゲ文化についての雑学を紹介したが、いかがだっただろうか。時代の流れによって、あったほうが良かったり、反対にあってはダメだったり。ヒゲのことでずいぶん振り回されているような気がする。
しかし、軽んじているわけではない、ときとして権力の象徴になっていたことも理解できた。
…ここで考えたのだが、実のところ秀吉は権力の象徴だけではなく、オシャレポイントとしてのヒゲにも敏感だったのではないだろうか?
もしそうなら、日ごとに付けヒゲのパターンを変え、エクステのように盛っている太閤殿下をイメージすると、どこか微笑ましい気がする。
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