天下統一…日本の歴史上、これを成し遂げた人は実質二人だけである。そう、サルとタヌキだ。
こういわれると、とんでもないおとぼけコンビのようにも思えてくるが、もちろん動物のサルとタヌキではない。「サル」こと豊臣秀吉、「タヌキ親父」こと徳川家康の2人である。
特に豊臣秀吉のあだ名は有名だ。「天下統一を成し遂げ、サルと呼ばれた偉人は誰のことですか?」と聞いたら、100人中99人は豊臣秀吉と答えるだろう。
そして…豊臣秀吉のあだ名は、サルだけではなかった。それどころか、織田信長が彼をサルと呼んだことは、実のところ一度もないというぞ?
え! 信長が考えたんじゃないの!? …ということで、今回はサルこと豊臣秀吉のあだ名にまつわる雑学を紹介しよう。
【歴史雑学】豊臣秀吉のあだ名は「サル」ではなく…「ハゲネズミ」?
【雑学解説】織田信長は秀吉を「ハゲネズミ」と呼んでいた
ドラマなど後世の創作を見ていると、織田信長は秀吉のことを「サル」と呼ぶのがだいたいである。少しバカにしたような言い草が逆に絆を感じさせる…などと思って見ていた人も多いのではないか。
しかし実のところ、実際に信長が彼をサルと呼んでいた記録はどこにもないのだ。
そして、実際に信長が秀吉に付けたあだ名は、"少しバカにしている"なんてレベルのものではない。どんなあだ名かって…?
「ハゲネズミ」だ。
信長が秀吉のことをそう呼んでいたことが発覚したのは、秀吉の正室・ねねに宛てた手紙のなかでのことだった。信長は浮気三昧の秀吉に悩んで相談を寄せてきたねねに対し、こんな言葉を贈ったのだ。
ねねを励ますための口上かもしれないが、たしかにハゲネズミと呼んでいる! ていうか、よりによってあの大魔王・信長にチクるとは…ねねさん怖すぎる…。
ねねと秀吉は当時としては珍しい恋愛結婚。武士の家系なら、だいたいは親が結婚を決めてしまう時代のこと、これは百姓上がりの秀吉ならではといえるかもしれない。
しかしそんな仲の良いカップルだったに関わらず、出世の道を手に入れた秀吉はとにかく跡取りを残すことに躍起になり、浮気し放題だったのだ。側室が15人もいたとかいなかったとか…。
そして結局この叱責の甲斐もなく、秀吉は信長の姪・茶々とのあいだに秀頼という一人息子を作り、終生猫可愛がりする。3歳にも満たない秀頼に関白の座を継がせるため、従兄の秀次を一家ごと殺してしまうほどだ。
それでも最期まで添い遂げたねねさん…ほんとに健気だわ…。
ヒドイあだ名は付けるけど…信長は優しい上司?
ハゲネズミの由来は小柄で髭が薄かったからとか、マジでちょっとハゲていたとか、いろいろいわれているが、実際のところ不明。ただ、どう考えても誉め言葉ではないことだけは明らかである。
とはいえ、信長の手紙には実は続きがあり、「言いたいことを少し我慢することもまた、妻の役目である」とも記している。ねねを励ますために秀吉を落としはするが、同時に立てることも忘れない。悪口を言っても、部下として可愛がっていたこともまたたしかなのだ。
ちなみに信長が秀吉に付けたあだ名はこのほかにもあって…これがまたヒドイ。なんでも指が6本あったことから、「六ツめ」と呼ばれていたというのだ。指が6本あるというのも気になるけど、信長さん…やっぱりそれパワハラっすよ…。
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【追加雑学①】「サル」というあだ名も間違いじゃない
先生からも親からも、秀吉のあだ名は「サル」と教わったのに…騙された! と傷付いた人もいるかもしれないが、そこは安心してほしい。信長がそう呼んでいた記録がないというだけで、豊臣秀吉がサルに似ていたのは紛れもない事実である。
- 信長に仕える以前、秀吉が仕えていた松下之綱が、その容姿を「猿かと思えば人、人かと思えば猿」と表現している
- 御伽衆(話し役)の曽呂利新左衛門(そろりしんざえもん)に「猿に似ているから自分の顔が嫌いだ」とこぼしたことがある
- 毛利家家臣・玉木吉保が秀吉の印象を「赤ひげに猿まなこでうそ吹く顔をしている」と書いている
- 肖像画や日本の書物だけでなく、宣教師や朝鮮人が書いたものにも「偉い人に会いに行ったらサルがいたよ」みたいな記述がある
という感じで、秀吉がサルに似ていたことを示す記録は多数残っており、サルみたいな顔をしていたことはほぼ間違いないのだ! 『麒麟がくる』の佐々木蔵之介さんみたいに、木に登っていたかは定かではないが…。
「豊臣秀吉は日本一の立身出世を果たした人物。信長の家臣になり、その中でどう立ち回り頭角を現し昇っていくのか?!僕も楽しみにしています。藤吉郎の登場シーンでは監督のアイデアで木に登らせてもらいました(笑)」(佐々木蔵之介)#麒麟がくる
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このように多くの人が「秀吉はサルに似ている」と記していたことが参考にされ、江戸時代に出回った伝記『太閤素生記』では、周囲からサルというあだ名で呼ばれる描写が登場した。
つまり後世の人が「秀吉はサルに似ていたのか…じゃあ、いっそのことあだ名にしてしまおう!」という想像で伝記を脚色し、そこから「秀吉のあだ名はサル」という認識が一般的になっていったのだ!
干支や身分の低さから「サル」と呼ばれていた可能性も
…たしかに、見た目以外にもサルというあだ名の由来になったとされていることはある。
当時の織田陣営や豊臣陣営は、生まれの干支であだ名をつけており、天文7年生まれの前田利家は戌年のため「イヌ」と呼ばれていた。そして秀吉は天文5年の申年生まれ。ここからサルというあだ名が付けられ、周囲がそう呼んでいた説があるのだ。
また武士の家系の者たちが、百姓からの成り上がりという秀吉の素性をバカにし、「あんなヤツ、サルと同レベルだろ」という意味で呼んでいたという、ちょっと胸糞悪い説もある。
信長が亡くなって関白になってからも、秀吉は各国の大名に認めてもらうのに苦労したというしな…。
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【追加雑学②】将棋の「王将」は秀吉が作った!?
将棋の駒には「玉将」と「王将」があることをご存じだろうか。実はこのように大将を意味する駒が二種類あることにも、豊臣秀吉が関わっている。
秀吉が生きた時代の将棋には、そもそも王将がなく、玉将しか存在していなかった。それをある日、
と秀吉が命じたことから、王将が誕生したという説があるのだ。
それなら2つとも王にすべきでは…と思わされるが…これにも「この世に王様は2人もいらない」という天下人らしい発想があったとかなかったとか。単純に紛らわしかっただけだと思うけどね…。
【追加雑学③】ほぼ悪口!おもしろい戦国武将のあだ名
戦国武将の中には「甲斐の虎」こと武田信玄や「日ノ本一の兵」こと真田幸村など、様々なカッコいいあだ名・通り名をもつ者たちがいる。一方で…秀吉のように残念なあだ名を付けられる武将も珍しくない。
ここではそんなちょっと変わったあだ名の武将たちを紹介しよう。
髭殿…津軽為信
津軽為信は弘前藩初代藩主となった武将である。そして髭殿というのが彼のあだ名。
戦国時代は髭が立派なことが1つのステータスだったので、ある意味最大の賛辞ではある。しかし…ちょっとストレートすぎやしないか。見方を変えれば「出っ歯」とか「デコッパチ」と同じようなニュアンスだぞ。
ちなみに為信は三国志の英雄・関羽に憧れてひげを伸ばしていたといわれており、その関羽には「美髯公(びぜんこう)」という立派なあだ名がある。美しい髭の人という意味だ!
…せっかく真似したのに、為信はだたの髭の人である。
鮭様…最上義光
山形藩初代藩主にして、伊達政宗の叔父さんでもある最上義光。彼はとにかく鮭が好きだからという理由で「鮭様」と呼ばれていた。
戦に勝利すれば「これで鮭がたくさん獲れる!」と大喜び。何かにつけて贈り物は鮭。とりあえず鮭。クマかなんかですか? …塩分の取り過ぎで病死したのではないと信じたい。
金柑頭(キンカアタマ)…明智光秀
いわずと知れた三日天下の明智光秀。大河ドラマではイケメンに描かれているが、理想と現実は違う。
実際には少し生え際が後退していたとのことで、信長はハゲを意味する「金柑頭」と呼んでいたのだとか。
要はこれに似てるってことだよね。皮をむいてトゥルンッ! となったところはたしかにハゲっぽいっちゃハゲっぽい。…信長さん、相変わらず辛辣である。
今年最後の金柑
ジャムにします pic.twitter.com/bzSnKUuok6— ℕ (@ta_neko2) May 12, 2020
しかしこれには諸説もあって、「光」の字の下半分と「秀」の字の上半分を合わせると「禿」という漢字になるので、こう呼ばれていたという説もある。
どちらにせよハゲと呼ばれていたことには間違いないんだけど。
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雑学まとめ
今回は豊臣秀吉のあだ名「ハゲネズミ」にまつわる雑学を紹介した。
それにしてもハゲネズミはかなりインパクトがあるあだ名だ。これからは秀吉の名前を聞くたびに、ハゲネズミというあだ名が浮かんできそうである。
せっかくバカにしたあだ名を付けるんだったら、一度聞いたら忘れないもののほうがいいもんね。でもやっぱり、戦国時代に生まれても信長には仕えたくない…。
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