喜劇王の異名をもつイギリスのコメディアン、チャールズ・チャップリンは、大の親日家だったことでも知られている。
彼の秘書を日本人の高野虎一氏が務めたことは有名だし、そのほか日本の著名人との交友関係も広かったという。
ここまで好意を示してくれているのだから、日本人としては大いに歓迎するべき人物である。…しかし、そんなチャップリンが来日した際、実は暗殺されそうになったことを知っているだろうか?
【歴史雑学】チャップリンは日本で暗殺されそうになったことがある
【雑学解説】チャップリンは「五・一五事件」で暗殺される予定だった!
チャップリンが日本で暗殺されそうになったのは、何を隠そう日本史の教科書にも載っている「五・十五事件」においてだ。
1932年5月15日のこと、政府に対して不満をもった海軍の青年将校たちが官邸を襲撃し、犬養毅(いぬかいつよし)内閣総理大臣を殺害したという、驚愕の暗殺事件である。
実は事件の起こった5月15日とチャップリンの来日スケジュールが被っており、計画では彼も暗殺のターゲットに加えられていたのだ。
不幸中の幸いで、チャップリンは難を逃れたのだが…日本政府への抗議なのに、なぜ国籍すら違う彼が巻き込まれたのか。真意は定かではないが、当時の情勢からいくつか推測することはできる。
ターゲットにされたのはイギリス人だったから?
まず政府と海軍の関係が悪化した一因に、1930年に締結されたイギリスとの「ロンドン海軍軍縮条約」が挙げられる。
この条約は要するに「第一次大戦の反省を活かして、軍艦の保有数などを制限しましょう」というものだ。条約を結ぶ際、政府は海軍との間で行き違いがあり、海軍はこの条約に納得が行っていなかったのである。
きっかけとなった条約がイギリスからの提案ということで、日本政府だけではなく、イギリス人のチャップリンにも白羽の矢が立ってしまったのではないか。彼がイギリス人ということ以外はまったくの無関係なのだが…。
またチャップリンの喜劇は当時、日本でも人気だったが、反戦を意識したその作風や、いずれ敵国にもなり得る西洋の文化が日本に浸透することを、海軍は快く思っていなかったとも考えられる。
いずれにしてもチャップリンからしてみれば、とばっちりもいいところだ。
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【追加雑学】チャップリンが暗殺を免れたのは天ぷらのおかげ
本来、チャップリンの歓迎会は官邸にて、五・十五事件が起こった5月15日のその日に行われる予定だった。しかし結局17日に延期されることになったため、彼は被害に遭わずに済んだのだ。
まあ、遠路はるばるやってくるのだから、1日、2日の誤差は仕方ないよね…ということではない。チャップリンは15日にはすでに日本に到着していたが、その日の彼は歓迎会どころではなかった。
そう、「天ぷらが食べたかった」のだ!
犬養元首相の孫・安藤和津さんがテレビ番組で語った逸話によると、五・十五事件の当日、天ぷらを食べたがったチャップリンは急遽、首相の息子で法務大臣を務めた犬養健氏に連れられ、日本橋へ出向いていたのだという。
これによって歓迎会は延期されることになった。天ぷらで絶体絶命のピンチを脱してしまうとは、筋金入りのコメディアンである。お店では36尾も平らげたというエピソードまであるぞ!
なんでもチャップリンは完璧主義で、自分の思い通りに行かないと、ワンシーンの撮影に1年以上を費やすこともあったという。ある意味マイペースなその性格を考えると、総理との約束より天ぷらを優先したことにも納得がいく。
そのおかげでこの後も数多くの名作が世に送り出されたわけだから、天ぷらさまさまである。
雑学まとめ
五・十五事件において、世界の喜劇王・チャップリンが暗殺されようとしていたのは、クーデターを起こした青年将校たちが、政府と同時にイギリスにも敵対心をもっていたからだ。
当時は戦争や世界的な大不況のなか、多くの人が負の感情を抱かずにはいられなかった。そんな情勢において笑いの道に生きたチャップリンは、まさに時代に必要な人だったといえるだろう。このとき被害に遭わなくて本当によかった。
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