高校野球といえば甲子園。毎年の甲子園大会は、高校球児たちだけでなくそれを見守る観客達にも強い感動を与える光景だ。
しかし勝者がいれば常に敗者もいる。無念の敗北をした球児たちが、涙をのんで甲子園の土を持ち帰るのを見たことがある人も多いだろう。
ここで思うことがある。あんなに毎年甲子園の土が持っていかれたらそのうち土がなくなっちゃうんじゃないか!?
毎年見ても、土がなくなってる場所などひとつもない。いったいどうなってるんだ…? 今回の雑学では、この甲子園の土の雑学について迫ってみた!
【スポーツ雑学】甲子園の土がなくならない理由とは?
【雑学解説】甲子園の土は野球の試合に最適なようにブレンドされている
甲子園の土は、黒土と砂を精巧に配合した特注品だ。その産地も、岡山や鳥取の土に中国の砂、とこだわっている。しかも毎年その配合は変わっている。
どうしてそこらへんから集めた砂と土じゃダメかというと、最高の野球の試合をしてもらうためだ。
実は、春と夏の甲子園大会では、砂と土の比率が微妙に変わっている。
春は砂と土がそれぞれ6:4なのに対して、夏はその逆の4:6だ。これは春は雨が多いから水はけが良い砂を、夏はボールを見やすいように黒土を多めにする、という配慮がある。
まさに甲子園の土は、甲子園大会のために作られた、世界にここにだけしかない特別な土なのだ。球児たちが思い出に持ち帰る気持ちもわかる。
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【追加雑学①】甲子園の土を最初に持ち帰った人は諸説ある
そもそも最初に甲子園の土を持ち帰ったのは一体誰なのだろう? 実はこれがはっきりしない。
一番最古かつ公式のものとしては、打撃の神様といわれた川上哲治が1937年の大会で持ち帰ったという説があるが、本人の言葉しか証言がなく、それもこっそり持ち帰ったらしい。
人目につくように持ち帰ったという意味では、49年大会の福嶋一雄投手という説もある。要するに、何をもって第一号とするかにズレがあり、はっきりと決まっていないのだ。
「甲子園の土は思い出に持ち帰るもの」という文化を周知させた意味で一番有名なのは、沖縄の首里高校のエピソードだろう。
甲子園の土を捨てられた沖縄の高校
といっても、このエピソードは甲子園の土を持ち帰ったことから始まるのではない。むしろ持ち帰ることが出来なかった悲劇からこの話は始まるのだ。それは1958年の大会のことだった。
この当時、沖縄の首里高校は、沖縄からは初めての甲子園進出校ということもあって注目を集めていた。
残念ながら第一回戦で敗退してしまったのだが、首里高校の選手たちは甲子園の土を持って帰った。ところが、故郷の沖縄で彼らを待ち受けていたのは残酷な仕打ち。甲子園の土を海に捨てられてしまったのだ。一体なぜ?
1958年という時代に注目してみよう。この頃沖縄はアメリカに統治されていた。そして当時の沖縄には「外国の土は持ち込んではならない」という検疫規定があったのである! アメリカ統治下の沖縄にとって、本土日本は外国…。かくして球児たちの持ち帰った土は那覇港の海へと消えていった。
しかしこの話はここで終わらない。この悲劇がメディアに報じられると、全国から同情の声が一気に上がり、やがて日本航空の客室乗務員から、甲子園の小石が首里高に届けられたのだ!
検疫では、土は持ち込み禁止でも石ならセーフとなる…。かくして首里高校の選手たちは、土は捨てられたが、甲子園の小石を手にしたのである。
この事件から、甲子園の土というものがより注目されたというわけだ。甲子園大会の一つの転機となる事件とも言えるだろう。
雑学まとめ
今回は甲子園の土を巡る雑学を集めてみた。
当たり前のごとく土は追加されていたわけだが、その土に対するこだわりをご存知だったか。
そして、甲子園の土には高校球児たちのドラマがある。今回紹介したのはその一部に過ぎない。今後、土を持ち帰る球児を見たらその歴史に思いを馳せてほしい。
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