サッカーといえば、読者諸氏はどのようなイメージがあるだろうか。
筆者のイメージとしては、ボールさえあれば行うことができるという点で、さまざまな国で親しまれているスポーツ...
だったが、調べていくうちにそのイメージが崩された。
技術発展が我が国ほど進んでいないブラジルなどがサッカー強豪国なのも、前述のボールさえあれば、という特性からだと思っていたが、このスポーツの起源自体は非常に血なまぐさい。
今回の雑学では、サッカーの起源について歴史的に、そして、その背景から軍事的に述べていこうと思う。
【スポーツ雑学】サッカーの起源はかなり残酷
【雑学解説】サッカーの起源は、戦争終結時に敵の王の首を蹴ったこと
もともとは、イングランドとヴァイキングの戦争において、イングランドが勝利した際に、敵であるヴァイキングの王の首を斬り、それをボールとして蹴りあったことが起源だという。
行為そのものをみると、死者を辱めるだけの行為のように思えるが、軍事的目的が存在すると私は考える。後の項目でそれを中心として述べていこう。
【追加雑学①】サッカーの起源は残酷だが、明確な意図をもった戦略的行為だった
前項で述べたが、サッカーの起源は敵国の王の首を斬り、それを蹴ったのが始まりだといわれる。では、なぜそんなことを行なったかを考察しよう。
はじまりは、大体8世紀ごろの出来事であるとされている。戦勝者の行為に無駄は基本としてない。すなわち、この行為自体にも必ず意味があると考えられる。
第一に自軍の士気を上げるための行為だった
軍事という分野に関して考えた際、士気というものは大切だといえるだろう。
仕事にたとえるとわかりやすいが、当然ながら同じリソースを割いた場合、モチベーションが低い人員に働いてもらうよりも、モチベーションが高い人員に働いてもらうほうが成果が上がる。戦争も人間同士が行う行為である以上、モチベーション、すなわち士気が高いほうが作戦の成功率は高まる。
上長として部下に接する機会がある方ならば覚えがあるだろうが、どれだけくだらない事象が原因であっても、部下のモチベーションが下がっていればフォローをする必要があるだろう。
現代社会の仕事であれば、部下のモチベーション低下から起こりうる事象としては、会社の業績低下や社員の減少などが考えられる。程度によっては大きな問題になるかもしれないが、命までは取られまい。
しかしながら、戦争状態にあっては、兵士の士気の低下は壊滅の憂き目に遭うリスクが急増する。
軍隊においては、それを防ぐためにも自軍の士気を高める行為は必要で、兵士たちに得た成果をはっきり認識させるために、敵の王の首を蹴って遊ばせたのではないだろうか。
人間、仕事をする際には成果が目に見えるほうがやる気は出る。もっとも、残酷な行為であることは否定しないが。
第二に敵軍の士気を下げるための行為だった
前項で軍隊の士気に関して述べたが、逆に考えれば、敵の士気は下げるに限る。敵の士気が下がれば相対的に楽になる。そのために自軍の士気を上げると同様に、敵の士気を下げる行為は大事だといえるだろう。
では、なぜ敵軍の王の首を辱めることが、士気を下げることにつながるかを考察していこう。
まず、現代と違って、近代化が進むまでは職業軍人が非常に少なかった。どこから兵士を集めていたかというと、ほとんどが農民だったというのだから驚きだ。
日本の戦国時代もそうだが、領地の農民を徴兵して彼らに戦わせ、指揮をとる将は職業軍人(イングランドの場合、騎士が正しいだろうか)という構成が一般的だった。
つまり、兵士階級に関していえば、戦うことで自国の危機を守ることはできるが、それは自身の本業ではないし、自身は戦死してしまえば家族の元に帰ることはできない。そのため、基本的に兵士階級の士気は高くはない。
しかしながら、ヴァイキングは略奪をもとにした生活形態をとっており、戦うことこそが仕事だ。ヴァイキング発祥の地といわれる北欧圏では、勇猛に戦って戦死すると神々の館に魂が招かれ、兵となることができるという神話があり、戦死することに忌避感はあまりなかったと考えられる。
その特性から、王といえば集団の象徴的な存在だっただろうし(世襲よりは、強ければ的な面が多々あったようだ)、自分たちの首領たる王が討たれ、その遺体が辱められれば当然ながら士気は下がるだろう。
イングランド将兵の行為はそれを狙ってのことではないだろうか。
戦死者を利用して士気を下げる作戦を行った軍人
前項では戦死者を利用して士気を下げる理由に関して述べたが、中世後期(1300-1500年ごろ)にそれを利用して救国の英雄となった人物が存在する。
ワラキア公国の君主であり、ドラキュラ伝説の起源とされるヴラド3世だ。オスマン帝国と対立していた当時、争いのなかで苛烈な戦略をとった(もっとも、自領内での処刑でも行なっていたので、いってしまえば手慣れたものなのかもしれないが)。
捕えたオスマン帝国兵を木でできた杭に串刺しにして、敵の進軍路や攻めてくるであろう自分の城の周囲にさらしたのだ。この戦略が功を奏し、兵はもちろん、指揮官であったメフメト2世の士気までへし折って撤退させた人物だ。
対オスマン帝国戦線を支えたドラゴン騎士団(Drăcule)に所属し、父から継いだドラクレア(Drăculea)の地位から、英語のドラキュラ(Dracula)という呼び名で記録されている。
スポンサーリンク
【追加雑学②】サッカーとして洗練されてきた歴史
もともと軍事行為としての意味合いが強かったサッカーだが、徐々に大衆に広がり、さまざまな階級のあいだで行われる競技となっていった。
ちなみに、発展の途上では相手を殴ったりすることも認められていて、その試合内容は凄惨だったという。そうした格闘技的な側面は、ルーツを同じくするラグビーに引き継がれたそうだ。
中世になると取っ組み合いを込みとした身体訓練として、そして貨幣経済の発展が進む産業革命以降になると民衆のスポーツへの希求意識によって、さらに発展していき、今現在行われているサッカーの形に落ち着いていった。
関連記事
-
アレを誓うぞ!サッカーの試合で選手が子供と入場する理由とは?
続きを見る
雑学まとめ
本雑学記事では、サッカーの起源が実は残酷であることに関して述べた。もとは単なる戦争後の遊びめいた行為が、価値観の変化によって、現代において多くの人に愛される競技になったというのだから驚きだ。
サッカーの起源に関して詳しく調べるうちに、通説であるイギリス(イングランド)発祥というのに加えて、中国発祥という見解も出てきた。イングランド発祥説をもとに本雑学記事を書いたが、興味をもたれた方はさらに踏み込んで調べてみるとおもしろいかもしれない。
関連記事
-
サッカーから戦争に…。ホンジュラスとエルサルバドルのサッカー戦争
続きを見る