豊臣秀吉。日本で初めて天下統一を成し遂げた、小学生でも知っている歴史上の偉人である。
そういわれると栄光の象徴のようにも思えるが、付けられたあだ名にはまったくもって天下人の威厳がない。サル・ハゲネズミ・六ツ目…。
…ハゲネズミもヤバイけど、六ツ目ってなんなの。うん…一見、意味不明なあだ名だけど、マジで6つあったらしいよ。なにがって指が。
今回はそんな豊臣秀吉の指に関する雑学である。
【歴史雑学】豊臣秀吉は指が6本あった
【雑学解説】「指が6本」はホント?豊臣秀吉に関する書物を辿る
歴史上の人物に関する逸話は、なんとなく嘘っぽいものが多い。偉人の武勇伝にはみんな幻想を抱きたいもので、得てして好き放題に言われるものだからだ。何百年も前のことなら、確認のしようもないしね。
ということで…「豊臣秀吉の指が6本あった」というのも、秀吉という人物を面白おかしく彩るための作り話でしょ。
なんて思っていたのだが…この説には事実と思わしき根拠がいくつもある。秀吉の指が6本あったことは、かなりほんとっぽいのだ。
【秀吉の指の数の根拠その①】ルイス・フロイスの『日本史』
ルイス・フロイスは戦国時代に日本にやってきたポルトガルの宣教師で、日本での活動の記録をまとめた『日本史』という書物を残している。
なんでもフロイスは日本に滞在しながら、10年以上に渡ってこの書物の執筆を行っていたという。すげー超大作。
1586年には秀吉にも謁見しており、フロイスは同書のなかでその印象について、こう書いているのだ。
「優秀な武将で戦闘に熟練していたが、気品に欠けていた。身長が低く、醜い容貌の持ち主だった。片手には六本の指があった――」
しかしこの記述に関しては、フロイスの個人的な恨みが込められているという見方が強く、指6本説もでまかせではないかといわれてきた。
たしかにこのあと1587年に秀吉は"キリスト教の宣教師は自国へ帰りなさい"という旨のバテレン追放令を出しているし、フロイスが「秀吉FU○K!!」と思って悪口を書いたとしても不思議ではない。
でも…指が6本あったって…それ、悪口なの? というのが正直な感想である。
「お前の母ちゃんでべそー!!」とは言っても「お前の母ちゃん指6本ー!!」と言うヤツは見たことがない。というか、実際に6本ないとそんなこと書こうと思わない。
よってフロイスは悪口で指が6本と書いたわけではなく、ほんとに指が6本生えているのを目にしている可能性が高いのだ。
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【秀吉の指の数の根拠その②】前田利家の『国祖遺言』
とはいえフロイスが秀吉を嫌っていたというのはほんとっぽくて、彼の書物だけではちょっと信憑性に欠けるところもある。そこで登場するのが前田利家の言行録、『国祖遺言』だ。
前田利家と秀吉は若いころからの大親友。一時仲違いしたこともあったが、秀吉に「自分が死んだら息子の秀頼を頼む」と言われるほど信頼されていた人物だ。
その彼が残した国祖遺言に以下のような記述がある。
「大閤様ハ右之手おや由飛一ツ多六御座候(中略)上様ほとの御人成か御若キ時六ツゆひを御きりすて候ハん事にて候ヲ左なく事ニ候信長公大こう様ヲ異名に六ツめかな とゝ御意候――」
…いっつも思うけど、この時代の書物って読むのめっちゃめんどくさい。意訳するとこうだ。
「秀吉は右手の親指が1本多く、6本あった。小さいときに切ればよかったのに切らなかったから、織田信長からは『六ツ目』などというあだ名を付けられていた」
言行録ということで、一応全部、利家が実際に言っていたことの記録とされている。旧知の仲だった秀吉と利家の間柄となれば、フロイスのものより信憑性が高い気もする。
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【秀吉の指の数の根拠その③】朝鮮の文官・姜沆(カンハン)の『看羊録(かんようろく)』
最後の根拠となるのは、1597年から行われた秀吉の朝鮮出兵で捕らえられ、以降3年間、日本で捕虜として過ごすことになった朝鮮の文官・姜沆が残した見聞録『看羊録』だ。
姜沆は看羊録のなかで日本の情勢や制度について事細かに記し、秀吉についても以下のように言及している。
「生まれたときは6本指があったが、成長するにつれ『人はみな5本指である。6本目の指に何の意味があろう』と言って切り落としてしまった」
…ん!? 前田利家は「切り落とさなかったから、変なあだ名付けられたんじゃん!」って言ってたぞ?
姜沆が日本に来ていたのは秀吉の最晩年のころで、フロイスや利家の記述より後の話なので、このころにはひょっとすると指を切り落としていたのかもしれない。
ちなみにフロイスに引き続きというか…姜沆も秀吉の容姿についてこんな記述を残している。
「容貌が醜く、身体も短小、猿に似ていたのでそのまま"猿"が幼名にされた」
…姜沆は捕虜なので恨みの部分は強いだろうが、それにしても感想が見事なぐらいフロイスと一致している。外国人から見ると、秀吉は総じて"醜い"という印象だったようだ…。
というか、サルは幼名じゃなくてあだ名だよ! さすがにそんな名前付ける親いない!
ちなみに動物園の人気者・パンダは指が7本ある。パンダと一緒だよ! というか、パンダのほうが多いぐらいだぞ!? …だから元気出しなよ秀吉…。
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【追加雑学①】多指症は珍しい病気ではない
秀吉のような多指症は、実は決して珍しい病気ではない。胎児のころに指の形成がうまくいかず、通常より指が多い状態で生まれてくる先天性の病気で、1000人に1人ぐらいの割合で患者がいるのだ。それってけっこうな数だよね…。
特に黒人さんには多く見られる症状らしく、アフリカでは家族14人全員が多指症なんて一家もあったというぞ。その身体的特徴を悲観せず、見物に来る観光客をもてなす人なんかも。
7x4=28本の指を持つインド西部グジャラート州の男性、Devendra Sutharさん https://t.co/woDHbFJWIs 多指症、観光対象として人が訪ねてくることを愉しんでいるとのこと。 pic.twitter.com/DnnlctJyOn
— Spica (@Kelangdbn) January 28, 2016
戦国時代の日本で多指症の手術は不可能?
こういった話を聞いていると、戦国時代の日本に多指症の人がいたとしてもなんら不思議なことはない。そして秀吉が多指症だとして、それを治療する手術を受けている可能性は低い。当時の日本において秀吉の多指症を切除することは、かなり難しかったのではないかと予想されるからだ。
というのも、秀吉の多指症は中手骨型(ちゅうしゅこつがた)と呼ばれる、一番厄介なタイプのものだったと考えられるためである。
そう、同じ多指症でも以下のように、いくつか種類がある。
- 浮遊型…イボのような小さな指が、骨もそこだけ分離してぶら下がっている
- 末節型…完全には分かれておらず、親指が2本くっついたような状態のものが生えている
- 中手骨型…完全に独立した6本目の指がある
秀吉の多指症はこのうち中手骨型に当てはまるもので、親指が余分に1本生えていたと考えられる。
浮遊型や末節型なら余分な指の部分が小さいため、切除だけの簡単な手術で済むことが多い。しかし中手骨型はそうもいかない。
切除しようにも残すほうの親指が、枝分かれしているぶん小さかったり、骨や筋肉の構造に問題があったりといったことが多いのだ。そのため切除だけではなく、骨の角度の調整や筋肉の移植など、指を形成するための手術が必要になる。
前田利家は「切ればよかったのに」などと言っていたが、戦国時代の日本にはまだ西洋医学も伝わっていないし、こんな複雑な手術を行えるとは思えない。それに幼少の秀吉は農民の家柄だし、腕のいい医者にかかることも簡単ではないだろう。
下手に素人が施術をすれば、傷口から感染症にかかって死んでしまうなんて可能性も。…恐ろしい。
晩年に切り落としたという話にしても、不可解な部分はある。
多指症の手術は通常、指の機能が確立される1歳より前に行うものなので、それ以降に行うと高い確率で不具合が出てくるのだ。姜沆の「切り落とした説」がほんとなら、晩年の秀吉はなにかと不便な想いをしたのではないか…?
【追加雑学②】豊臣秀吉はひとつの眼球に瞳がふたつあった?
秀吉の特異体質エピソードはまだまだある。続いては、ひとつの眼球に瞳がふたつある"重瞳(ちょうどう)"だったという話だ!
…指だけじゃなく瞳も!? 秀吉どんだけー!! と、思うところだが、これは恐らく後世の創作によるフィクションだ。
重瞳は古代中国において、身分の高い者だけに現れる身体的特徴とされ、"貴人の相"と呼ばれていた。…なんか中二病感がすごい。
まったくそのイメージ通りで、秀吉の覇者としての風格を出す目的で、物語のなかで貴人の相をまとわされたと考えられるのだ。このほか、源義経や平清盛が重瞳だったなんて創作もある。
目力で時間止められたりとか…なんかそういうすごい能力あったりすんのかな…。
ちなみに重瞳は多瞳孔症という正式名称で、医学的には立派な病気である。
閲覧注意
目が4つ!?
多瞳孔症って病気なんだって。。
物が二重に見えたりするらしい…ฅ(๑⊙д⊙๑)ฅ!!
大変そうだな…その人、頑張ってください! pic.twitter.com/ks2ENnVuKQ— さや (@sayaminikomu) September 21, 2016
【追加雑学③】フロイスが秀吉嫌いすぎてウケる
秀吉が信長の意向を継いでキリスト教に寛大だったころは、彼とフロイスの仲はそこまで悪くなかった。しかし前述のように、秀吉がキリスト教を邪法としてバテレン追放令を出した後から、二人の関係は急激に悪化していく。
フロイスが日本史のなかで書いていた秀吉の悪口も、まだまだあんなもんじゃない。先に紹介したものの後にも、次のように続くのだ!
「――片手には六本の指があった。眼がとび出ており、中国人のようにヒゲが少なかった。極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺していた。抜け目なき策略家であった」
ここでいう"淫蕩(いんとう)"とは酒や娯楽にだらしがないことだ。つまり秀吉は「だらしない・あくどい・性欲が強い」の三拍子揃ったクズだと、フロイスはいたって真面目に書き連ねているのである。
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日本史内の秀吉に対する記述は、このほかも以下のように悪口のオンパレードになっている。
- 「高貴な生まれではなく、日本の君主になるには程遠い家系だった」
- 「かなりの恩知らずで、周りが親切にしてもシカト。お世話になった人を追い出す、貶めたるなど日常茶飯事だった」
- 「野望を持ちすぎるあまり残酷で嫉妬深くて不誠実。そんでもって横着者で大嘘つき」
- 「権力をもつにつれてイジワルになった。自分の家臣だけじゃなく外部の人にもすぐキレるから嫌われていた。というか秀吉のことを憎んでいる人しかいなかった」
これは…秀吉が日本史を読んだら確実に涙目…!
事実の部分もあるのかもしれないが、さすがにフロイスも大人げない気がする。こんな感じだから指6本説も信じてもらえないんだよ!?
実は秀吉も自身が醜いことを認めている
フロイスをはじめ、さまざまな文献で秀吉が悪く言われていたのは、単純に書いた人の私怨とも取れる。しかしこのうち秀吉の容姿に関しては本当に醜かった可能性が高い。
これも同じくフロイスの『日本史』のなかで、秀吉自身が語ったものとして以下のような記述が見られるのだ。
「皆が見るとおり、予は醜い顔をしており、五体も貧弱だ。しかし予の日本における成功を忘れるでないぞ!」
そう、秀吉は自分の見た目が醜いことを、フロイスの前で認めているのだ。"五体が貧弱"というのは、身長が低く小柄なことを言っているのだろう。
秀吉はこういったコンプレックスをもっていたため、絵師に肖像画を描かせる場合もできるだけ頭を小さく描かせ、身体の小ささをカモフラージュしていたという話もある。
彼の生きた戦国時代というのは、現代のように食べものが十分に得られる時代ではない。貧しい農民となればなおのことで、その出自ゆえ秀吉は身体が小さかったのだろう。顔にしても、人より何倍も苦労してきたために、かなり老け込んでいたのではないか。
身分は変われど自身からにじみ出る貧乏人オーラを、秀吉は終始気にしつつ生きていたのだ。みんな口を揃えて「醜い」と言うぐらいだから、これは相当である。
せっかく天下人になったのに、なんだか報われない話だな…。
「豊臣秀吉の指」の雑学まとめ
今回は、天下人・豊臣秀吉の指が6本だったという雑学を紹介した。
これだけ内容の合致する文献が残っていることから、秀吉の指が6本あったことは、かなりほんとくさい。多指症はそこまで珍しい症状でもないというし。
「サル」や「ハゲネズミ」というあだ名はよく知られているが、同じく信長が付けた「六ツ目」というあだ名はあまり知られていない。
秀吉が自分の指が6本だったことを嫌がり、そのあだ名だけは後世に残らないようにもみ消していたのではないかともいわれている。そういえば肖像画には6本指の姿はないし…。
事実が不明瞭だからこそ、今回のようにさまざまな想像ができる。それもまた歴史のおもしろいところである。
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