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やんちゃすぎ…。水戸黄門こと"徳川光圀"は不良だった|面白い雑学

水戸黄門のモデルとなった徳川光圀本人は、手の付けられない乱暴者だったという雑学

徳川光圀

「助さん格さん、懲らしめてやりなさい!」「この紋所が目に入らぬか!」など数々の名言でも有名な、テレビ「水戸黄門」。何十年もお茶の間で人気を集めているあの水戸黄門だ。

「水戸の黄門さま」と聞いて思い浮かべるのは、どんな人物だろうか? 朗らかで豪快で、弱いものに優しくときに厳しい、ニコニコ顔のヒゲを生やしたおじいちゃん…といったところか。

でも、それはテレビの中のお話。実際の黄門さま・徳川光圀(みつくに)は、実はとんでもない人だった! 今回はあまり知られていない「水戸黄門」についての雑学を紹介していく!

【歴史雑学】水戸黄門のモデルとなった徳川光圀本人は、手の付けられない乱暴者だった

自分で辻斬りをして刀の切れ味を確認したり、家臣を突然刺殺するような恐ろしい人だった。

【雑学解説】学問に目覚めるまでは非行少年だった

学問に目覚めるまでは非行少年だったというトリビア

徳川光圀

まずは水戸の黄門さま・徳川光圀について紹介しよう。

光圀は1628年に徳川頼房(よりふさ)の三男として生まれた水戸藩の2代目藩主。頼房は徳川家康の末の子なので家康の孫にあたる。兄がいたが、その兄より才能があるからと、6歳のときには将来藩主になることが決まっていたそうだ。

実は非行少年だった

そんな光圀、若い頃は結構やんちゃしてたらしい。異様な格好をしている・元服する前から遊郭通い・辻斬りなどなど。

服装が変なのは別にいい。個性だし、傾奇者はその前の時代にもいたし。遊郭通いは…昔は「大人」と呼ばれるのも今より早かったし、まあ許せる。

しかし、辻斬りまでやっていたとは…。親からもらった刀の試し切りのために町人をいきなりばっさりとは、「俺、若いころ結構やんちゃしてたんだよね~」では済まされない。

1602年に江戸幕府は辻斬りを禁止していて、武士であっても理由なく人を斬ることは重罪だったのだが、奉行所も次期水戸藩主の屋敷までは捜査できず、光圀はなんのお咎めもなかったそうだ。

光圀が16~17歳くらいのとき、見かねたお守り役が彼をいさめる手紙を書いたり、父親から直々に注意されたりしたそうだが、不良少年は聞く耳をもたなかった。

光圀18歳、覚醒

型破りな傾奇者だった光圀が、テレビではなぜあんなに「いい人」として描かれていたのか。

それは光圀が18歳のとき、中国の前漢時代に司馬遷が書いた「史記」を読んで、彼がそれまでの非行を改めたから。突然勉強に目覚め儒学を学び、国の歴史をまとめる書物を編纂(へんさん)事業を始めたようだ。この書物は、光圀が生きているうちには完成しなかった。

そして34歳で水戸藩主を継いでからは、水道の設置・寺社改革・蝦夷地(えぞち)探検や国史編纂にさらに力を入れたりと、名君ぶりを発揮していた。その姿が領民の目には「いい人」にうつり、のちに美談として語られるようになったということだ。

将軍 徳川綱吉が「生類憐みの令」を出したときには、それを無視して牛肉や豚肉を食べたり、犬の皮を綱吉に献上したりもしていたそう。

庶民は「生類憐みの令」に困惑していたから、「将軍が出した法律を無視する光圀さん、マジすげぇ! 話わかる人だわ」とリスペクトされていたのも「いい人」になる一因だったといわれている。

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一方、田畑を調査し作物の収穫量を調べる検地を行った際に、実際収穫できる量よりも多く報告して水戸藩の石高を多く見せようと見栄を張る…ということもやったそうだ。

63歳で隠居してからは、自宅で能会を開いて家臣と二人っきりになったとき「いつも高慢で驕っているから」という理由でいきなりその家臣を刺殺したという話もある。

そして、国史の編纂や蝦夷地の探検には莫大な費用が必要で、藩の財政は悪化し領民の税負担は半端なかったそうだ。

勉学に励み名君の側面を見せても、やはり根は乱暴な傾奇者なのか…。

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【追加トリビア①】テレビ「水戸黄門」、どこまでフィクション?

テレビ「水戸黄門」、どこまでフィクション?についてのトリビア

徳川光圀をモデルに作られた時代劇「水戸黄門」は、どこまで忠実に光圀公を描いているのか。有名な場面や設定について調べてみたぞ!

日本各地を回っている…?

「水戸黄門」といえば、光圀公が諸国を旅して悪人を懲らしめるという話がメインだが、実際の光圀公は江戸と水戸との往復がほとんどだったようだ。

それ以外に旅行として行ったのは、日光・鎌倉・熱海だけらしい。…これでは1クール放送できない! ということで、水戸黄門の諸国漫遊はフィクションだ。

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副将軍…?

「ここにおわすお方をどなたと心得る。恐れ多くも先の副将軍、水戸光圀公にあらせられるぞ!」と紹介され、センターでドーンと構える黄門さま。

「水戸黄門」の中でもかなり有名なシーンだ。しかし、「副将軍」という職は、正式にはなかったらしい。光圀公が就いていた位は「権中納言」。

テレビで放送するにあたり、「中納言」はなじみがないからと「副将軍」になったそうだ。のちに、「史実に忠実にしたい」という出演者の意向でテレビの中でも「中納言」と呼ばれるようになった。

助さん格さん

黄門さまの取り巻きとして有名な助さんと格さん。圧倒的な強さで光圀公のSPを務める彼らは、実際にはいない。

国史の編纂をするために光圀公が各地へ派遣した調査員は本当いたようで、その話をもとに後から作られた講談に「助さん」と「格さん」という架空の人物が登場したとのことだ。

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【追加トリビア②】光圀公が日本で初めて食べたもの

光圀公が日本で初めて食べたものについてのトリビア

水戸藩らーめん

様々なエピソードで有名な光圀公だが、勉強熱心でいろんなことに興味があったようだ。

汁そば(ラーメン)・餃子・チーズ・牛乳酒・黒豆納豆を日本で初めて食べたのはこの光圀公。ちなみに、ラーメンのルーツとなるものが初めて日本で食べられたのは、光圀公の時代より200年も前のことらしい。

儒学の勉強のために招待した中国の学者にラーメンの作り方を教わり、自分で作ったりもしていたそうだ。そのときの記録をもとに光圀公が作ったラーメンを現代で忠実に再現したのが「水戸藩らーめん」。

今も水戸市内で食べられるところがあるので、興味がある方は行ってみてはいかがだろう。

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トリビアまとめ

やんちゃすぎる…。水戸黄門こと徳川光圀は傾奇者だったというトリビアまとめ

「水戸黄門」こと徳川光圀の雑学、いかがだっただろうか。放送開始から何十年経ってもなお新シリーズが放送されるテレビ「水戸黄門」。それだけ世間でも人気ということだ。

たしかに、1話完結の勧善懲悪物語は見ていて痛快でおもしろい。しかし、「徳川光圀は本当に立派な人だったんだな~」と良い面のみ知られ、事実と異なる知識が植え付けられてしまうのはテレビの怖いところだ。

実際私も、黄門さまが非行少年だったなんて知らなかった! これからは、テレビの中で豪快に笑う黄門さまを見る目も変わってしまいそうだ。

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